●冬来たりなば、春遠からじ
長い冬の時代であった。円谷プロは、「電光超人グリッドマン」(93/04/03〜94/01/08)以降、テレビ特撮シリーズを製作していなかった。ウルトラマンとしては、「G(グレート)」(90/09/25リリース)、「パワード」(93/12/17リリース)という2作品が海外で製作されビデオリリースされたのみ(その後テレビでひっそりとオンエアされた)。しかしながら、それは大きな話題を得たわけではない。だが、冬来たりなば、春遠からじ。
他社作品では、大きな動きがあったのだ。毎年、期待されながらも、マニアをある部分裏切りつづけてきた「ゴジラ」。とはいえVSシリーズは興行的にはまずまずの成績を収めており、シリーズは続いていた。だが、そのゴジラの強力なライバルが復活した。「ガメラ 大怪獣空中決戦」(95/03/11)である。これを見た我々は度肝を抜かれた。従来の東宝怪獣映画とは一線を画する、まさに期待に違わぬ、センスのよい怪獣映画を見せられたのだ。その盛り上がりとは正反対に、ゴジラはハリウッド版との絡みのため、「ゴジラVSデストロイア」 (95/12/09)を持って、安らかな眠りに(一旦)ついた。
翌年は、注目すべきテレビ特撮番組が一斉に始まる。東宝の「七星闘神ガイファード」 (96/04/08〜96/09/30)。そして、東映は、「超光戦士シャンゼリオン」(96/04/03〜96/12/25)、「激走戦隊カーレンジャー」(96/03/01〜97/02/07)、「ビーファイターカブト」(96/03/03〜97/02/16)の3作を同時にオンエアした。4作もの特撮ヒーロー番組が同時にオンエアされることなど、いったい何年ぶりなのだろう。しかし、我々は彼の、子供の頃、もっとも慣れ親しんだヒーローの復活を期待した。そして…、満を持してウルトラマンが復活した。
●ウルトラマンの復活
映画で新作ウルトラマンが復活する。このニュースは特撮ファンの胸を躍らせた。我々の前に姿をあらわいたウルトラマン、それは「ネオス」でも「セブン21」でもない。「ウルトラマンゼアス」(96/03/09)であった。出光とのタイアップ。そして、主演がとんねるず等、話題性はあった。だが、完全にコメディとして復活したウルトラマンは、ウルトラマンのパロディでしかない。外伝的には十分に楽しめるし、イベント性も高い。ジュブナイル映画としてのクォリティも、非常に高い。確かに面白かった。しかし…、本当に望んだウルトラマンはこれではない。そう、心の中に引っ掛かりを残したのだった。もっと、特撮マインドの琴線に触れる、そんなウルトラマンが見たい。我々は依然、“飢え”ていたのだ。
●光の巨人の帰還
新作ウルトラシリーズが始まる!このニュースを知ったときの興奮は、いまだ記憶に新しい。「MAXのおもちゃ箱」というサイトを立ち上げて数ヶ月、こんなビッグニュースが飛び込んでくるとは、驚きであった。しかしながら、一方で「ゼアス」の例もあると、慎重にならざるをえない部分もあったのだ。我々がよく知っている、あの我々のウルトラマンが帰ってくるとは限らないのである。期待と不安が交錯する中、ついに「ウルトラマンティガ」製作発表が行われたのであった。
いままでにない新しいウルトラマン。それは慣れない目には違和感を覚えさせるものであったが、それでもその美しさ、神々しい顔立ち、そして何よりも均整の取れたスタイルには惚れ惚れとさせられたのだった。銀と赤という従来のカラーにもう一色、青(というよりは紫だが)が加わり、そのラインがまたボディラインを締めている。さらに驚くべきことに、このウルトラマンは3タイプにチェンジするというのだ。マルチ、パワー、スカイと名づけられたそれぞれの形態もまた、目新しいものだった。
●アイドルがウルトラマン?
気になるキャスティングでは、主演が、当時すでに人気絶頂となっていた、アイドルグループV6の長野博。ジャニーズの現役アイドルがウルトラマンを演じることになるとは、まったく時代が変わったものである。どうも、ウルトラマンの主役というと、ハヤタやダンのようにお兄さんというよりはおじさんというイメージが強かったのだ。
それが、この長野博である。どこにでもいる、普通のお兄ちゃんといった風情である。こんな奴がウルトラマンを演じるのかと、少なからず不安を抱いたのはワタシだけではないだろう。いわゆるウルトラマン世代にとって、ハヤタやダンや郷秀樹は、みなカッコイイおじさんだったはずだ。それがこんなちょっと頼りなさげな青年が主役とは…。もちろん、自分がそれだけ年を取った所為で、そう思える部分もあるのだろうが・…。しかし、この心配は杞憂であったことが、後に判明するのだ。むしろスケジュールの取りにくいトップアイドルを主役に抜擢したことが結果的には吉となるのである。
●「光を継ぐもの」
待ち望んでいたその瞬間がやってきた。1996年9月7日、午後5時30分。「ウルトラマン80」から16年ぶりに、新作ウルトラマンのTVシリーズが再開されたのである。多くのオールドファンがこの瞬間、胸をときめかせていたはずだ。「ウルトラマンティガ!」のタイトルコールに続いて、ビート感あふれる「Take me higher」が流れ始めたとき、明らかに今までのウルトラシリーズとは一線を画する、そんな予感を抱いたものだ。垢抜けて今風なウルトラマンがスタートしたのである。
あっという間の30分間であった。えっこれで終わっちゃうの?30分間の中に、これでもかっていうくらい、設定を詰め込んだ感がある。一度見ただけでは、細かいところまではチェックできないくらい、そんな第1話であった。特撮的にもまだまだ粗があるし、ビデオ撮影とフィルム撮影部分がまったく馴染んでいない(特撮をビデオ合成で処理するというやり方は、すでにスタートレックTNGなどでは使われていた。そしてそれは効果的であった)。GUTSウイングを吊るピアノ線が丸見えだったり。だが、そういった不満点を補って余りある何かが、そこにはあったのだ。
それは、一言で言えばスマートさ、みたいなものだろう。実際ティガの腰の細さには驚いたし、大魔神を思い出させる、石像がティガに変わるシークエンス、墜落するメルバをバックに着地するスカイタイプなど、見せ場というか見栄を切るシーンはきちんとある。特にスカイの着地シーンは素晴らしいショットであると思う。
かくて興奮のうちに第1話は終了した。ネットでの評判は、おおむね好評であったと記憶している。ただ、やはり前述のような難点を問題とする意見もあり、まだまだ「ティガ」といいう番組に対する評価は固まっていなかった。
●偶然か奇跡か
当初、V6がこんなに人気が出るとは、ジャニーズサイドでも予測していなかったと聞く。それでなければ、1年間という長丁場(放映開始時点では、最低2クール、人気が出れば4クールということだった)の主演に据えるということはないだろう。しかも、通常のドラマ以上に手間のかかる特撮番組である。
結果、スケジュール調整がうまくいかなかった第1クールでは、長野だけ別撮りという物理的な制約が生まれてしまったのである。それにあわせて脚本を作らなければならない。ライター陣に課せられた足枷であったといえる。
しかしながら、結果としてダイゴ以外のGUTS隊員を、主役にしたエピソードが次々に書かれる事となった。たとえば、第3話「悪魔の預言」のイルマ、第5話「怪獣が出てきた日」のムナカタなど、彼らのキャラクターが個々に深く掘り下げられることとなる。それによって、GUTSの結束力が強調され、いかにもいい雰囲気のチームとなったのである。
過去のウルトラでは、各隊員のキャラがここまできちんと描かれたものは少ない。エピソードによって、その性格が変わったりという不自然な齟齬をきたしたりもしていた。しかし、このティガではそのようなこともなく、むしろ隊員たちひとりひとりの性格やバックボーンが設定として、先のエピソードに受け継がれていくという好ましい状況がここに産まれた。もちろん、ライター陣相互のレベル合わせ作業は非常に骨の折れるものだったはずである。それを成し遂げたと言うのはやはり、制作サイドの努力であろう。主役を存分に活躍させられないというハンディを逆手にとったような形に、結果的にはなったわけである。これは偶然の産物か?それとも奇跡?たとえこれが奇跡だとしても、スタッフひとりひとりの、より良いもの、過去になかったものを作り出そうという努力が、この奇跡を呼び寄せたと言えるのではないだろうか。
とにかく、第1クールにおいて、GUTSというチームの色付けは完成されたのであった。
●帰ってきたウルトラセブン
さて、ティガを語る上で忘れてはならない(とワタシが考えている)のは、ウルトラセブンとの関係だと思う。当時、ティガに対するイメージとして引合に出されるのは、ウルトラセブンが多かった。作り手の世代がワタシにも近いということもあり、その印象はワタシも強く持ったものだ。"セブン・コンプレックス"なんて言葉もあるくらいで。セブンが持つ重いメッセージ性は、今見ても全く古さを感じさせない。いや、むしろ今だからこそ重くワタシたちの心に響く作品である。また、その重さ、メッセージ性は、リアリティを追及した設定や映像に裏打ちされたものでもある。
一方のティガもまた、強いメッセージ性、リアリティの追及、高度な特撮技術によって構成される特撮シリーズである。故にこれを見て皆、セブンを思い出したにちがいない。しかしながらよくよく見て見れば、セブンとティガの違いは明らかなのである。決定的なのは、セブン=ダンが宇宙人であるのに対して、ティガ=ダイゴは人間であるということ。厳密に言えば人であり光であるのがダイゴなのだが・・・。だが、ダンが「ノンマルトの使者」や「盗まれたウルトラアイ」で見せたような第三者的な微妙な立場というものは、ダイゴには見られない。第三者と言っても、ダンは過分に地球人寄り名のだが。ダイゴは常に人間である。自分が強い力を持つことに対して衒うことがない。「自分のできることをやる」。それがダイゴの生き方といえよう。
セブンの影響は多く受けていながらも、決してそのイミテーションや焼き直しではない。むしろ、それを越えたところでの勝負をしようとした、そのチャレンジがティガという作品を生み出したと思う。"セブン・コンプレックス"などというものは存在しない。セブン的な側面を持ちながらも、これはあくまでも"ティガ"なのである。
もうひとつ、セブンと比較される要因として、全体を貫く"ラブストーリー"の要素がある。これについては次項で述べよう。
●壮大なラブストーリー
シリーズの大きな核となる要素が、ダイゴとレナのラブストーリーである。初回から最終回に至るまで、二人の関係は特別なものとして描かれている。同様にウルトラセブンもまたダンとアンヌのラブストーリーが最終回では描かれる。この場合は直截的な告白といったシーンはなく、それはダンが自らの正体を告白するというもので代用されている。だが、ダイゴとレナは、プライベートでも一緒に行動することが多く(GUTSの勤務シフトってどうなってるんだろ?)、GUTS内部でも公認の仲のようであった。最初はどちらかといえばレナのほうが積極的で、ダイゴは朴念仁という趣なのだけれど、ふたりの関係は回を追うごとにどんどん深まり、あの感動の「もっと高く! Take Me Higher!」を迎えるわけである。
この回で、レナがダイゴの正体に気付いていることがわかり、またダイゴもそれを否定しない。なぜ、ひとりで抱え込むのか。人類全ての重みを一身に受けながらも、ダイゴは淡々と自らの生き方を貫いてきた。だが、レナとしては、ふたりの特別な関係を考えれば「言ってくれてもいいじゃない」という気持ちが高まったわけだ。そこまで信用されていないのだと考え、ダイゴを避けてしまう。それが「もっと高く」という暴走を生み出してしまう。
このふたりの微妙な心の擦れ違いは、見るものに痛いほどに伝わってくる。互いに互いを思いやる気持ちが、心の行き違いを引き起こす。ここまで繊細な心の動きを描いたウルトラシリーズは、いや、特撮ヒーロー番組はなかっただろう。やもすると、こういう心の動きが理解できない視聴者もいるもので、当時もBBSで「理解できない」という書き込みがあったことを思い出す。そういう意味では完全にお子様はおいてきぼり状態ということになる。それほどまでにふたりの関係をシリアスに描いているということである。
「ただいま」、「おかえり」は、ウルトラシリーズ屈指の名シーンであると思うのだが。このシンプルな言葉にこめられたふたりの想い。そして、地面に落とされるヘルメット。不粋なコメントなどせずに、ただこの映像を楽しめばよい。
●大河ドラマの幕引き
かくして語り継がれた光の巨人の物語も、ついにその終わりを迎えることとなった。ファン心理としては、好調なティガをこのまま終わらせるのはもったいない。第5クール、第6クールと続けていってはどうなのかという声も聞かれた。ワタシ自身もその意見には賛成であったし、ある部分反対でもあった。
やはり作り手側としては、同じ物をやり続けるとこはマンネリズムにつながるだろうし、どこかで新風を入れなければならない。アメリカでは「スタートレック ネクストジェネレーション」のように、適宜休みを入れながら長く続けるという例もある。「STTNG」に限って言えば、7年も続いた長命シリーズながら、全くマンネリなどは感じられなかった。
「ティガ」は最終話を3部作という形で締めくくることになった。これもまた異例のこと。連作で最終話を描いた例というと「ザ・ウルトラマン」くらいかと思うが、このあたりあまり自信がない。とにかく、3部作でスケールの大きい最終話となった。ダイゴとレナの関係を軸にストーリーが進んでいく。イルマはもちろん、ダイゴがティガであることを知っていたし、結果的にはGUTSメンバーと総監他TPC幹部も知ることとなる。最終回の正体ばれはお約束な部分であるが、この描き方は感動的であった。
そして、(この時点での)最後の敵がガタノゾーアという邪神。ニュージーランド沖の改定から突如浮上する邪悪な都市ルルイエ。そしてそこに巣くう怪鳥ゾイガー。闇の源ガタノゾーア。多くのマニアはこれでにやりとしたはず。つまり、これはクトゥルー神話の世界なのである。ここで、「ウルトラマンティガ」はクトゥルー神話大系に組み込まれたというわけである。脚本を担当した特殊脚本家、小中千昭氏もクトゥルーといういモチーフはお好きなようだ。第3話で既にキリエル人という「古きものたち」を登場させているし、氏の他の著作でも邪神絡みのものは見受けられる。
ワタシ個人としては、小中氏の作品は、「G(グレート)」、「ティガ」だけでなく、もっと以前から接している。もっとも記憶に残った作品は、「インスマスを覆う影」(92)である。もちろん、原作はH.P.ラブクラフト。これを日本を舞台に置き換えている。出演は佐野史郎、河合美智子、真行寺君枝であった。男性しか登場しないラブクラフトの世界に女性キャラを配し、ほのかなセックスのイメージを持ち込んだ斬新さが非常に印象強い。
話が横道にそれた。最終話は、「光」の本質について語る物語である。ティガの力は光の遺伝子を受け継いだダイゴだけが持ちうるものではない。その光の萌芽は、人間ひとりひとりのうちにあるのである。だが、その光の萌芽は、年を経、成長するとともに心の奥底に沈んでいってしまう。だが、子供たちはその「光」を大人よりも容易に開花させることができるのだ。もちろん、そこに至るまでの人々の努力を見なければ、その「光」は開花しない。キリノマキオやマサキケイゴ、そしてGUTSの面々。彼らがその限界までの努力をし、それでも力が足りなかったとき、「光」は開花した。光の巨人は再びさらに強い力とともに立ち上がり、闇を打ち砕いた。
アートデッセイの甲板で、記念撮影をする彼らの表情は晴れ晴れとして、美しい。これほどまでのハッピーエンドで幕引きをしたウルトラシリーズが、過去にあっただろうか。これまで描かれてきたことの総決算が最終話で行なわれ、そしてこのラストである。泣けないはずが無い。
●光は受け継がれる
そして、7年が経った。人類はガタノゾーアとの戦いを乗り越え(そして闇の巨人との戦いを乗り越え)、ネオフロンティア時代に突入していた。GUTSは解散、TPCの精鋭部隊はスーパーGUTSとなっていた。そんなとき、人類は再び大きな災いに遭遇する。スフィアの来襲である…。
ウルトラシリーズ初の連続設定ものとなった「ウルトラマンダイナ」。あえて、全く別の設定にせずに「ティガ」の設定の延長線上に「ダイナ」を設定したのはやはり、好評だった「ティガ」の勢いを持続したまま、新しいシリーズに突入したいという制作側の考えによるものと思われる。見慣れた設定が引き継がれるというのは、ある種安心感を持って見ることができる。だが、同じ時間軸上にバックボーンを設定したシリーズとはいえ、そのテイストは「ティガ」とは全く正反対と言えるものであった。GUTSがイルマを隊長する母性的集団とするならば、スーパーGUTSはヒビキ隊長の父性的集団。また、GUTSが沈着冷静な頭脳集団であるのに対して、スーパーGUTSは体育会系の行動派集団。そして、ダイゴがどちらかといえば物静かな優等生なのに対して、アスカは落ちこぼれの自信過剰家である。この対比は意図的なものであり、まぁ、わかりやすいといえばわかりやすい。が、一方でちとやりすぎかなという気がしなくもなかった。
はっきり言って、はじめてアスカを見たときの印象は、なんとも…。この茶髪の頭悪そうなお兄ちゃんがウルトラマンやるのかよーというものである。いや、もちろんダイゴ役の長野氏を見たときの印象も、こんなお兄ちゃんがウルトラマンやるのかよ、だったのであるが(笑)。ただ、すっかりダイゴに慣れてしまった目には、アスカはなんとも奇異に映ったのである。これも制作サイドのねらいだったとしたら、やられたって感じであるが。
さて初回から前後篇のサービス篇で、じっくりとドラマのスタートアップを描いてくれたのは、演出の小中和哉氏である。「ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影」(97/4/12)が非常によかった小中氏の演出は冴え、まさにその名の通りダイナミックなヒーローの登場の晴れ舞台を作ってくれたのである。
そして、特撮だが、その技術は「ティガ」スタートの頃とは雲泥の差である。ここまでデジタル合成のレベルが上がったのかと、感心することしきり。これをテレビで見られるのだから、いい世の中になったものだと思ったのだった。
●迷走する光
だが、その初回の盛り上がりに反して、いまひとつダイナに乗り切れていない自分がいた。これは、“ティガ・シンドローム”とでも言うべき症状で、当時、そう言う人たちは少なくなかった。つまり、「ティガ」の印象やイメージがあまりにも強すぎて、「ダイナ」についていけないのだ。しかも、前述のようにあくまでも「ティガ」とは反対路線をとろうとする「ダイナ」である。これではなかなか気持ちの切り替えができないではないか。
アスカというキャラクターについても、今ひとつはっきりとしない部分があった。「目覚めよアスカ」では、わざと人前で変身しようとしたのだが、自分の意志だけではできないというような描写があった。しかし、これ以降アスカが変身できなかったことはない。また、自信過剰でいつもやりすぎのアスカという描かれ方をしていたかと思うと、「決戦!地中都市」では、無謀な開発をする社長に説教してるし。ちょっとちぐはぐかなという印象はあった。
だが、一方でダイナというキャラクター。ウルトラマンであるというドメインをもったヒーローの描き方は、本来の対象視聴者である子供たちにははっきりと伝わったのではないだろうか?むしろ、単純明快にヒーローを描くという意味では、「ダイナ」はわかりやすいと思う。それはそれでよしとして。
とはいえ、やはりわれわれとしては物足りない。2つの作品を比べてどうこう言うのは、本来はナンセンスなのであるが、やはりそれほどに「ティガ」の印象は鮮烈だったのである。知的で沈着冷静な印象のイルマ以下GUTSの面々のカッコよさにしびれていたワタシとしては、なんだかいつも怒鳴ってばっかのヒビキ以下スーパーGUTSのメンバーはちょっとって…。隊員たちの印象も最初は薄くて、特にカリヤのいキャラクターがコウダとかぶっているのが辛いところではあったのだ。ただひとり、マイ隊員だけは目立ってたし、最初っから注目だったね。当時の時点で人気絶好調のグラビアアイドルがレギュラー出演なんだから。期待に違わず彼女演じるマイ隊員はキュートであった。
●コメディからシリアスまで
そんなダイナであったが、ワタシが吹っ切れて楽しめるようになったのは、「はるかなるバオーン」からであった。これは、面白かった…。なんと言っても、絶対にティガでは成立し得ないエピソードであると思うし、これぞダイナという趣。赤いストロングタイプが、ダイナにはよく似合う。スーツアクターの中村さんの体格に、ダイナはよくあうのだ。バオーンと相撲を取るダイナ。バオーンの泣き声を聞いて、倒れてしまうダイナ。うーん、こりゃダイナじゃなきゃできんわい。ってね。そして、そのすぐ後に「怪獣工場」である。うーーん、これは完全にやられたよなー。もう、30分笑いっぱなし。まさに爆笑篇だった。
こういうコメディ路線がダイナのドメインなのだなぁと、ワタシはそういう理解をしたわけである。ティガにももちろん、コメディ的な要素はあったのだけれど、ここまで前面に押し出してくるということは無かったわけで。そう言う意味では、ダイナはより“ウルトラマン的”であると思う。「ウルトラマン」という作品は、ホラーからコメディまで幅広いバリエーションが魅力のひとつになっていると思う。そういう観点からも、ティガが総じて“セブン的”部分を持ち合わせていたのに対して、ダイナは“ウルトラマン的”であると言えるだろう。
そして、その“ウルトラマン的”な印象をいっそう強めてくれたのは、「闇を呼ぶ少女たち」である。まさに「エコエコアザラク」ミーツ「ダイナ」といったテイストのこのエピソード。ストーリーもよかったし、視覚的にもすばらしかった。特撮班、力入れたなぁと思わせてくれる、そんなエピソードであったのだ。
かと思うと「少年宇宙人」では、観るもの全てを泣かせてしまう、そんなエピソードを送り出しているのだ。大田愛テイストがたっぷりと盛り込まれたこのハートウォーミングなエピソードは、ゲストの石井めぐみの実子のイメージも重ねられて、感動作となったのである。
決してコメディだけではない。こんなホラー的な世界も、感動作もまた、ダイナは受け入れてしまう。それでいて、随所に見られるコメディ的な要素はきちんと守られているのだ。これがまさにダイナワールドなのだろう。懐の広い、非常に面白いシリーズとなったわけである。
●ティガワールドとの融合
もうひとつ、ダイナワールドの奥行きを見せる要因としては、ティガワールドとの融合がある。前作「ティガ」で作りこまれた設定をさらに発展させることにより、TPC史というスケールの大きな近未来史にリアリティを付加しているのだ。GUTSのメンバーが初めてダイナに登場するのは、映画「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ」である。この時は、メインになったのはイルマ参謀。イルマはダイナの危機に自ら出撃してしまう。自分がそのときにできることを、(多少暴走気味ではあるが)行なうわけだ。ダイナワールドではGUTSは解散しており、イルマは情報局の参謀となっている。通常は、勝手な行動を慎むべきイルマ参謀が自らダイナの危機に出撃したというのは、やはり映画「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」で危機に瀕して、光の戦士たちが地球を救ったことへの恩返しとも見ることができるかもしれない。
他のメンバーは、一連の危機が去ってから姿を見せる。彼らがどこで何をしているのか、それは明らかにされないのだが、イルマのもとを訪れる旧GUTSメンバーたちの懐かしい顔に感動であった。たとえ、それが単なる顔見世的な出演であろうと、GUTSのメンバーたちも“ダイナワールド”ではちゃんとそれぞれ生きているのだということがわかったわけで。ティガとダイナの世界が繋がったと感じられる演出であった。
テレビシリーズでも、そのつながりを感じさせるエピソードが続く。「平和の星」ではハスミ記者を狂言回しに、スクラップ記事の写真でサワイ総監、ヒビキ隊長とヨシオカ警務局長官らの関係や、サワイ総監からフカミ総監へのTPCの移り変わりなどを語らせている。ここで、TPC史が繋がるわけだ。さらに「決断の時」では、コウダを面接するムナカタリーダーが登場している。そして、GUTS・スーパーGUTSの夢の共同作戦を描く前後篇「滅びの微笑」である。
映画「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」で、ヒビキ達のサポートを受けたムナカタリーダーは、この時にその礼を返すことができたわけだ。もちろん、制作的には順番は逆なのだが、こういうリンクが2本の映画と2本のテレビシリーズの間で縦横に張り巡らされているのは非常に面白い。それを辿ってみるのも、このティガ-ダイナワールド作品の楽しみ方のひとつだろう。
忘れることができないのは、「うたかたの空夢」か。これもティガワールドとダイナワールドのキャラクターがめちゃめちゃに突っ込まれている快作(怪作?)である。ここまでやるかという気がしないではないが、とにかく楽しめる。
だが、ここまで来てもまだ登場していない旧GUTSメンバーがいた。それはヤズミとダイゴである。彼らの登場は、最終回まで待たねばならなかった。
●一大叙事詩のフィナーレ
最終回3部作に至り、ダイナワールドのテイストはがらりと変わる。コメディ色はやや影をひそめ、感動大作になるのだ。「最終章I 新たなる影」では、映画「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」でも描かれていたF計画がまたも暴走、人類防衛を履き違えた輩によって、アスカはピンチに陥ってしまう。ウルトラマンを人類の手で作り出し、防衛兵器として使うという思想は危険である。神にも近い力を持った人類は、その力をコントロールする強い精神力を持たねばならない。だが、いまだ人類はその精神的な強さの段階に至っていないのだった。
火星の地に倒れるアスカ。その姿を求めさすらうのはリョウである。彼がダイナであろうがなかろうが、リョウがアスカを思う気持ちは大きくなっていた。はっきり言って、このアスカとリョウの関係はちょっと唐突でありびっくりしたのだが…。最終回に来て、ティガを意識したのか、無理やりラブストーリーに持ち込んだような気がしなくはない。しかも、マイもいたんだけどね。リョウはシンジョウに憧れていたはずなんだが…。
続く、「最終章II 太陽系消失」。火星のアスカを助けたのは、ついに登場のダイゴである。ダイゴとアスカは2度目の顔合わせだ。アスカがダイゴを意識していたかどうかはわからないが、映画「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」のラストで二人はすれ違っている。火星植民地に赴くダイゴと、TPC職員として働くアスカ。ダイゴはその時、はっきりと彼を認識した。同じ遺伝子を持つものとして。“後輩”として。火星で、今の自分にできることを精一杯やっていた彼。しかし、火星での異変、太陽系の危機に瀕してできること、それは同じ遺伝子を持つものを助けること。それは傷ついた彼を看病するだけではない。内面的に傷ついた彼、つまり、「なぜ自分なのか?」という問いで自己の行き詰まりを起こしてしまっている彼に、歩むべき道の方向を指し示すことである。ダイゴとアスカという対照的なキャラクターながら、何よりも強い結びつきを感じさせるシーンである。アスカは自分が対峙している人物の正体が分かっていたのだろうか?かつて映画「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ」で、ティガに会いたいとイルマを訪ねた彼だが、今その目の前にティガその人がいる。そのことがわかっていたのか?やはり、漠然と感じるところはあったのだろう…。だからこそ、ダイゴの言葉を素直に受け入れて、再び戦いに赴くのだ。
アスカ復活後、いよいよ最後の物語が「最終章III 明日へ…」で語られる。ここのポイントは、スーパーGUTSのメンバーにアスカの正体がわかってからの各メンバーの反応である。これは、「ウルトラマンダイナ スペシャル」を観たほうがわかりやすい。テレビではカットされたシーンが復活しているのだ。リョウとアスカのふたりの会話、コウダ、カリヤのモノローグは泣かせる。これにナカジマの例のシーンが繋がるわけで。カットされたテレビバージョンではちょっとナカジマのシーンは唐突な気もした。やはりメンバー全員のそれぞれのアスカへの想いがきちんと描かれたほうがわかりやすい。
そして、当時賛否両論であったダイナの最期(?)である。グランスフィアのワームホールに飲み込まれたダイナは負けたのか?そして、死んだアスカは天国で父シンと再会したのだろうか?そのように取れるラストであった。だが、「ウルトラマンダイナ スペシャル」では、グランスフィアのワームホールに飲み込まれると、別の時空に飛ばされてしまうという説明がある。つまり、アスカ=ダイナは死んだのではない。別の時空に行って、そこにいる父親と再会できたのだ。そして、それを捜し求めるネオ・フロンティア・スピリットにあふれた旅に、スーパーGUTSの面々は出ようとしている…。
とても希望に満ちた終わり方ではないか。ティガ−ダイゴと続いた一大叙事詩のフィナーレにふさわしいとワタシは感じ、感動したものである。
●ホップ・ステップ・ジャンプ
ティガでホップ、ダイナでステップ、そしてガイアでジャンプ!平成ウルトラシリーズもこの「ウルトラマンガイア」で一旦お休みとなることがわかっていただけに、その作品への期待も非常に高いものであった。ティガのライターとして高い評価を受けた小中千昭氏がシリーズ構成として参加。今までにないウルトラマン像を作り出すこととなったのである。
まず驚きは、ウルトラマンがふたりいるという設定である。ガイアのライバル的な、そして影のあるキャラクターの登場で、ストーリーにうねりが出た。
さらには、主人公が非常に若いという点。過去のウルトラシリーズの中で最も若いのではないだろうか、我夢は?成長していく主人公は、前作ダイナでも描かれていたが、この我夢については少年といってもよいくらいの年齢に設定されており、さらに人間ウルトラマンの成長という面が強調されている。
そして青春群像とでも言うか、登場キャラクターの多さ。防衛チームであるXIGだけでも、ライトニング、ファルコン、クロウのスカイチームだけでも9人。さらにハーキュリーズ、シーガル、マーリンで合計18人。これに堤チーフが加わる。そしてオペレイターの敦子とジョジー、石室コマンダーに千葉参謀で23人なのだ!またガイアでは平成シリーズで初めて民間人のレギュラーキャラクターが加わる。KCBの3人組である。民間人、特にマスコミの人間を登場人物として配したのは、非常に面白い試みだと思う。とにかくこれだけの登場人物が出てくるドラマは、まさに大河ドラマと言えよう。しかも、登場人物は話がすすむにつれてさらに増えていくでのある。
また、全編を通じて共通の敵が設定されていることも注目すべきことであろう。「根源的破滅将来体」という謎の敵は、ヤプールというよりも、エヴァンゲリオンの使徒を思わせる不気味さ。その目的や正体が謎のまま、若者たちは戦いに赴くことになるのだ。
こういった、過去のウルトラシリーズとは一線を画した様々な設定、そしてそのドラマの内容も意識的に対象年齢を若干上げられており、まさにジャンプを目指す作品にふさわしいものとなった。
実際に、放映第一話「光をつかめ」を見る限りでは、「ウルトラマン」や「怪獣」というものが存在しない世界にいきなり登場するC.O.V.という異質な存在、そして謎の光の巨人から力を授かる少年のドラマがリアリティたっぷりに描かれていたと思う。これは、期待しないわけには行かないことになった。
●ふたりのウルトラマン
ライオン丸におけるタイガージョーというか、キカイダーに対してのハカイダーというか。敵か味方かわからないという登場の仕方が興味深い。 ティガにおいてはイーヴィルティガという非常に魅力的なキャラが登場しているし、また映画「ゼアス2」においてもウルトラマンシャドーというキャラが出てきている。これらの"ダークな"ウルトラマンの人気があったからであろう、アグルというキャラが登場してきたのは。
実際にアグルが姿をあらわすのは、「その名はガイア」のラストである。その砂塵の中に立つ青い巨人の姿は非常に印象的であった。その後藤宮として、アグルとして度々我夢の前に姿を表すこととなる。
その行動は謎に満ちており、ガイアやXIGに敵対することもあれば、根源的破滅将来体に対しては共同戦線を張るというもの。しかし話が進むにつれ、藤宮の目的が明らかになる。地球を破滅から救う唯一の手段、それは人類を全て抹殺すること。これは、突き詰めて考えると自己否定にも繋がってしまうのだが…。
ガイアもアグルも地球の意思が与えてくれた力ということになっている。その二つの力が、同じ地球を守るという目的ながらその手段の違いによって敵対しあうという構図は面白い。ちょうど、「機動戦士ガンダム」のアムロとシャアのような関係と言えるのではないかな。
特にガイアという陽のヒーローに対して、どこか憂いを含んだ悲壮感のあるウルトラマン、アグルの存在はこの「ウルトラマンガイア」という番組に必要不可欠な要素となっていったのだ。それは藤宮役の高野八誠の演技もさることながら、アグルのスーツアクターである清水一彦の功績は大きいと思う。あの独特の登場シーンの振り返り方にはしびれる。
過去のいわゆるウルトラ兄弟とは全く異なる形でのウルトラマンの競演。ライバルであり、ともに戦う仲間という形に後半変わっていくわけだが、「ウルトラマンガイア&アグル」という番組タイトルにしても良いくらいの比重であった。当初の番組は2クールでアグルはいなくなる予定だったとのことだが、ああいう形になって、結果的には大正解といえるだろう。
●根源的破滅将来体
今回の敵は、毎回違う形でありながら同じ目的をもって何者かの手により送り込まれてくる。その何者かを根源的破滅将来体と呼ぶ。いわゆるボスキャラが決まっていて、毎回ザコキャラが登場、節目節目では中ボスが出てきて、ファイナルステージでボスキャラが登場するというパターンは、ゲーム世代にはすんなりと受け入れられるものだったことだろう。
ティガにおいては超古代怪獣、ダイナにおいてはスフィアという繰り返し登場する敵がいたのだが、大きなテーマとして根源的破滅将来体の存在を打ち出したところがガイアの特色である。怪獣を送り出す根源的破滅将来体。それに対して人類側にいるのが、光量子コンピュータ「クリシス」を開発、根源的破滅将来体の地球侵略を予知したアルケミー・スターズである。地球がその危機を知り、自らの意思で天才少年たちを生み出した。そして、その中からふたりの少年を選んで怪獣たちに対抗しうる光の力を与えたと。このようなバックグラウンドストーリーが予想されるのである。
根源的破滅将来体は、その目的や主体がわからないままに地球に飛来し、破壊を行なう。単なる怪獣ではなく、何者かの意思で操られた破壊者たち。このボスキャラの存在が、ガイアのストーリーに一本筋を通す形になった。ガイアは、根源的破滅将来体の襲来から根絶(?)までを描いたストーリーであるとも言えるのである。
●青春群像
ガイアの登場人物が非常に多いことは前述した。さらに付け加えるなら、彼らのほとんどが若者であるという点だ。堤コマンダー、千葉参謀という重鎮はいるが、それ以外の主要登場人物は概して若い。彼らがその若さゆえに悩み傷つき、そして希望を見いだす。そんなエレメントもこのガイアというシリーズを語る上では欠かせないと思う。
特に恋愛感情はキャラクターが育つとともに顕著に描かれるようになっていった。我夢、敦子、キャサリンの関係。ストーリーに大きく影響することになる藤宮と稲森博士、そして玲子との関係。さらには梶尾と敦子の姉である律子の関係、米田に想いを寄せる慧など。登場人物が多いことを逆手にとって人間模様を描いていくことが、ガイアの大河ドラマ的展開に深みを持たせることになったのである。
ただ、残念なことにXIG各チームのメンバー全員に均等にスポットライトが当たったのかというと、決してそういうわけではない。最も登場回数の多いと思われるチーム・ライトニングでさえ、北田と大河原については完全に脇役ということになってしまった。ましてや他のスカイチームはなおさらのこと。それどころかチーム・マーリンなどはたった1度の登場で終わってしまった。オープニングには毎回登場していたのだが…。一方で何故かチーム・ハーキュリーズの3人は主役話が全員あるのである。やはりハーキュリーズは、キャラクター的にいじりやすかったのであろうか…。しかし、それでは他のチームが不憫というものである。
が、最終回に向かってXIGのメンバーが壮絶な戦いに挑んでいく様はよかったと思う。結果的には各チームのリーダーがメインの戦いになってしまったが、それは仕方の無いとこかもしれない。あれだけの人数を全て活躍させるのは無理というものだ。MAXはあまり評価していないエピソードなのだが「ロック・ファイト」のように9機のファイターが入り乱れるような、そんな迫力ある先頭シーンをもっと見てみたかったというのが本音である。
とはいえ、XIGの食堂での我夢と梶尾たちの描写など、若者っぽさをリアルに描くところも少なくなかったわけで、そのあたりは充分に共感を得ることができた部分なのだ。
以下、続く…